ひとすじの光が
エアコンの効いた快適な温度の部屋、
寒いはずないのに、
陽差しがやんわりカーテンに透けてもまだ、
だるくてベッドから出られない。
わたしは芯から孤独で、
どうしても起きるためのまっとうな理由が、
そして、生きるための然るべき理由が見いだせない。
ふと、そんなときに、
お寺に寄附でもしてみようかと思いつく。
毛布にくるまったまま漠然と、
「おてらおやつ」というプロジェクトがあったのを思い起こす。
それは、仏様へお供えを贈り、そのお下がりを
困っている人たちに分けるというもので、何度かお菓子を贈ったことがある。
けれど、それは困っている人たちのためというより、
自分のためだった。
やおら、わたしは毛布を払いのけて起き出し、
パソコンに向かい考える、どんな物を贈ろうかなあ、と。
お供えだから高級菓子がいいかと思ったけれども、
よく考えると、
少量パックのお米だとかレトルトカレーだとか、そういったもののほうがいいかも。
そんな可能性に思い至って、
メールに書いてあったお寺の連絡先の番号を見る、
直接きいてみればいいんじゃないか、と、そのときとつぜん気づいて、
思いきって電話機の番号をプッシュする。
つながったようだ、
どれだけコールしただろう、ややあって女性の声が、
おそらくはご住職の奥様だろう、親切な声が応えてくれる、
はい、弘教寺です、
と、女性の声が名乗られたので、わたしも自分の名を告げる、そして、
いつもお世話になっています、と挨拶して、用件に入る、
おてらおやつクラブに寄附を贈りたいのですが、
どのようなものが喜ばれるのでしょうね、と、きいてみる。
すると、こんな答えが返ってきた、
どうしても、おやつが多くなりがちなのですが、
ほんとうは食品類も喜ばれるんですよね、と。
じゃあ、どんなものがいいかな、と思案しながら、わたしは、
わかりました、とにかく、近々、そういったものを贈らせてください、と伝えて、
朗らかなやりとりを終えて電話を切った。
何がいいかな、そして、わたしはこんなことを考える、
誰かのため、は、
自分のため、と本当はつながっていて、
ひとのために生きようとすることで何だかつよくなれる、孤独を越えて、与えようとすることで
生きる理由が見つかることもあるのではないか、と。
まるで闇のなかに
ひとすじの光が差し込むように。