一杯の紅茶
2023年01月26日
いま、呼び起こしてみる、
遠い記憶。
若い頃、外国に旅行したときの。
ダブリンから列車で三時間、ゴールウェイの街に着く。
そこからは舟。
西の果ての島へと。
港のある村に泊まって、そこを拠点に歩く。
そのときは一時間ほど歩いてもぜんぜん平気だったから、
南のほうへと向かってキリーニの村へいった。
建てかけの家があった、
その前にキャンピングカーが止まっていた。
おおきな犬がいて、
飼い主らしい男の人が話しかけてきた、
どこへいくんだ、というので、崖、とこたえると、
キャンピングカーに入れてくれて一杯の紅茶を差し出してくれた。
すてきな音楽きかせてくれた。
紅茶にミルクを入れるのがイギリスとも共通するこの国の飲み方で、
やさしい味がした。
崖になんていかないで、山の上の教会の廃墟につれていってあげるよ、といって、
わたしたちはいっしょに出かけた。
あのとき淹れてくれたミルクティの味。
当時飼っていた、
みごとな体格のちょっとだけ目つきの悪い
ミルクティの色の毛並みをした、わたしの猫。
どれも戻らないものばかり。
すっかり落ちこんだときにはそんなものを思い出してみる、
小さい頃あそんだ遊具とか、ひとりぼっちだったときに囃しながら声をかけてくれた男の子とか、
そんなとりとめのない記憶がベッドにいるわたしを
かすめては通り過ぎていくのだった。
たしかに、それらはもう戻らないのだけれど、
砂のなかに埋もれた宝物のようにそこに眠っているということはできないか。
いま、冬の眠りについている
庭の小屋にいる、わたしのたいせつな亀のように。
マグカップのなかの一杯の温かい紅茶。
わたしの猫。
慈しんできたものたちは温もりでもってその返礼をくれるものであるようだった。