山に水芭蕉の咲く頃

2022年02月26日

わたしは待とう、その時を。

去年はいつ、水芭蕉を見に行ったんだっけ、

写真のアルバムをめくってみる。

二月、咲く梅。

三月、あふれる桜。

四月になって、庭のすみれたち、キュウリグサたち、ハコベたち、

それから楓の新緑が顔を出す。

庭がいっせいに賑やかになったころ、やっと、

舞台は山に移り、

水芭蕉の写真が出てくる。

日づけを見ると、四月も下旬にさしかかろうという頃だった。

行った時にはちょっと見頃を過ぎていて

なかには生き生きとした花もちらほらあって、それを選んで写したけれど、

ぐったりとした姿をさらしているものも多かった。

だから、今年は、それより一週間も早ければちょうどいいのでは、

そうすれば、水芭蕉のすっくと立ちならぶ、みずみずしい光景を見ることができる。

花が地上をおおうように、

許しが嘘におおいかぶさるようになればいいのに。

オブラートにつつまれた言葉はときおり

心の弱ったころを見計らって

包みがほころび苦い味がわたしを突き刺す。

やさしい嘘もあれば

わたしを思い通りにするためのつまらない嘘もあった。

外でヒヨドリが鳴いている、

するどい声でわたしを元気づけるかのように、それはけっして、

罪のある嘘なんかじゃないに違いない。

だから、ヒヨドリの気持ちがにせものだと責める理由はどこにもない。

それと同じこと。

すべての嘘が悪意から出ているわけじゃない。

庭が花とみどりにおおわれ

山に白く凜とした花が頭をもたげるその時をわたしは待ちたい。

去年より一週間はやく出かけよう、そうすれば、いちばんうつくしい大地に出会えるだろうから。