慈雨

2022年02月11日

不意に貴方はおとずれた、

玄関の扉をあけて、

応接室にあがりこんだ、

機嫌はどうか、とたずねてきた。

最悪です、と率直にこたえると貴方は、

宝石でも欲しくないか、と、

ソファにどっしりと腰を下ろしながらいう。

ほんとうは少しだけ、ラピスラズリが欲しかったけれども、

宝石で身を飾るのにふさわしいような場所がないから、といって、

それに彼にそんな金を使わせるわけにはいかない、

欲しい気持ちを我慢することにした。

応接室にあるピアノは黒光りしていて、その乳白色と漆黒の鍵盤はまるで、

弾かれる時を待っているかのようだった。

が、今日はどうも気乗りがしない、

ソファで貴方と向き合っている、右手の窓からは、

レースのカーテンごと開け放たれた広いガラス窓からは、

庭の木々がよく見える。

冬枯れの木立ちもきっとよく見れば小さな芽をたくわえていて、

春にはいっせいに賑やかになるはずだ。

いま、庭の土は雨を求めている、

やがて来たるべき芽吹きの時のためにひたすら。

わたしは貴方にいう、

頼みごとをひとつだけきいてくれる? と。

いくつでもきいてやる、と貴方。

ひとつでいいの、いまは、

貴方の弾く「エリナー・リグビー」がむしょうに聴きたいの、

お願いできる? というと彼が、

あんな辛気くさいのがいいのかというので、あれがいいの、と重ねてお願いする。

貴方は、ぎし、と音をたててピアノの前の古い椅子にすわると、

その、ややごつい指を鍵盤のうえに置いた。

無骨な指から奏でられるとは思えないほどの深い哀れみをたたえた

もの悲しい旋律。

あなたの奏でるややくぐもった柔和な音が、

部屋を、わたしの心を満たしてゆく。

これまでのわたしには、いや、依然として、一種の信条みたいなものがあって、

かわいそう、という感情をひとに向けることは失礼であり、

じぶんに対してもまたそのような感情を向けられることは我慢ならないと思っていた。

でも、貴方の優しさはほんもので、

それがたんなる憐れみであることを知りながら、わたしは貴方に心をひらかずにいられない。

まるで草木の根が雨を受けとめるかのように、

やわらかな慈愛にあふれる貴方の音色をわたしは求めてやまない。

そそがれる涙のように、

わたしのさまよう心のうえに透き通るしずくをください。

ピアノ・ソロでカヴァーしてくれた

貴方の「エリナー・リグビー」、

春にしとしと降るめぐみの雨のようにわたしの大地をうるおし、時のおとずれとともに、

やがて、わたしの庭にも花が咲くかもしれない。