水芭蕉

2022年05月01日

宿のなか眠れずにいると、

カメムシがなぐさめてくれた。

昼間のことを思い出してごらん、カメムシがいった。

それでわたしは、

北へと向かう新幹線の車窓から

残雪をいただいた山々が見えてきたことや、

川べりが黄色の花たちで眩しく彩られていたこと、

木々が今まさに芽吹こうと

小さな淡い葉を天に向かって差し伸べようとしていたことを

思い出し、またそうやって思い出すなかで

山桜がいっときの美しさに染まったその姿なんかを

目の前にうかべてみる。

予約をしておいたタクシーの運転手さんが

駅で出迎えてくれた。

盛岡は初めてですかときかれ、

前にも来たけれど、通りいっぺんのところしか行っていないので、と答える。

岩手山はきれいな山だ。

残雪と黒い土のコントラスト。走っていくと見る角度が変わって、

端が盛り上がってややいびつだった形が威風堂々とした姿に変わった。

交通事情さえ許せば

どこでも止まりますよといってくれたので、

さっそく路肩に止めてもらい、

牧草地を前景に岩手山の写真をとる。

伸びやかで雄大な眺めに映える骨太な山肌がいい。

タクシーはさらに森のおくへと、山のなかへと入っていく。

カメムシはどこかへ行ってしまったから、

ここから先は独り言だ。

山に春がやってきた、とうとう雪解けのときがやってきたのだ。

きのうはひどい雨で

残雪をかなり溶かしたのではと運転手さんはいう。

茂みのあいだを、どうどうと狭い流れがほとばしっている。

土で一見よごれたかにみえる雪が

それでも、ちらほら地面に残っている。

ねえ、カメムシさん、どこ、

きいてちょうだい!

部屋をさがすが影もかたちもない。

それで、わたしは独りでミズバショウ咲く清らかな山奥の沼のことを思う。

ここからは言葉を越えた感動しかない。

沼の手前に芽吹きのときを迎えた木、沼の水面には咲き乱れる白い無垢な花たち。

まだ病気も老いも知らない。

厚く氷に閉ざされた世界を切り開くように咲いている。

きのうまでの雨で沼はうるおい、

今日、ふりそそぐ陽を浴びて水面にはひかるさざなみが。

自然はうつくしい。

もし人間がいなかったら、もっとうつくしいだろうか。

いや、自然は開発の手をまぬがれ、手つかずのままありつづけるだろうが、

そのうつくしさに目を留める者もまたいないだろう。

人間がいるから、

それをうつくしいと感じる人間がいるから、はじめて自然はうつくしいのではないか。

とすると、

人間の存在はかならずしも悪ではなく、

自然をこわすのは業であるが、

こわされゆく自然と

喰らいつくしみずからも滅びていこうとする人間とのあいだに

かすかないっときの触れあいができたということはできないだろうか。