美容院への道
失恋した時のことを思い出していた。
それをもとに何か書けないかと思っていた。
夜のビジネスホテルの
ひとつだけ置かれたベッドとか。
どんなに狂おしく、またかすかな救いに似たものを求めて
窓にうつる明かりを見つめたか、とか。
画面におどる別れのメッセージと他には宿とタクシーの番号ぐらいしかない携帯とか。
そんな中で、
たったひとつだけわたしに分けてくれた電話番号があったこと。
わたしはたったひとつの番号にかける。
十回コールして出なかったら切ろうと思っていた。
たぶんわたしが旅行中であることを知っていて何事かと思ったのだろう、
はい、と応えがある。
わたしは、急に電話してすみません、といい、
ただ声が聞きたかったんです、用事じゃありませんから、ぜったい東京に帰りますから、それだけです、
とじぶんへの決意表明みたいなものを言い残して電話を切った。
相手は面食らっていたが
じかに信頼できるひとから声が聞けたことでだいぶマシな気分になっていた。
取り残されたようなそんな夜も今はとおい。
あと、どのぐらいのあいだ一緒にいられるかわからないが
少なくともいま母親は傍にいてくれる。
このあいだは手づくりコロッケをつくった、母に、退院したらつくってあげるから、と、
約束していたのだった。
けっきょく、種を丸めるとき形が上手くいかなくて
母に大幅に手伝ってもらってしまったが、少なくとも揚げるのはさいごまでじぶんで揚げた。
そんな話を美容院でしていると
ああ、こんなにも太平洋側の冬は陽射しにあふれていたんだなあ、と思う。
このあいだ旅行にいった場所はいま大変なはずだ。
何ができるのか躊躇うこともあるが
変わらない日常を送って
無理のない範囲で寄付をするだけでもじゅうぶんだとの言葉に
そんな見知らぬひとの言葉にずいぶん励まされる。
美容院に来るとちゅうヒヨドリが、わたしが大好きな鳥のなかでもひときわ大好きな鳥がいた。
梅のつぼみがふくらんでいた。
ああ、何か、失恋の話はもうやめにして、
新しい、もっと、このヒヨドリの羽ばたきのように生命力にあふれた作品が
書けないだろうか、と、そんなことを夢見はじめる。
悲しみはもうずいぶんとおくて、わたしは新しい旅をはじめようとしていることに気づいた。